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藤戸 天城の史跡めぐり 佐々木盛綱像
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藤戸天城の史跡めぐり

源平藤戸合戦跡地 池田家ゆかりの地など 藤戸天城地区


藤戸の起こり
東備郡村志によれば「上昔、備前の内海埋まらず広がり氏時は、これを、吉備の穴海と云って、此藤戸の辺は、迫門にて、西備中の海に連れり。・・・・・・其穴門穴斎などと云えるは、最上古藤戸の地也、しかるに中古に至って藤戸と名づけたるは、相傳ふ、元来此海迫門なれば水甚だ急流なるに、源平戦のころに至って海底、埋り浅かりければ、潮汐の長落に応じ波自ら濁流し、これをのぞむに、藤花の風に斜なるが如くみゆ、依って其名を得る所也」
藤戸の位置
藤戸海峡によって児島が本土から切り離されたころは、瀬戸内海を往来する舟にとって藤戸の泊(児島の泊)は重要な港であった。また海を渡って児島から本土に入るにも便利な位置にあった。このように十字路当たるところとして、藤戸藤戸は交通上極めて重要な場所にあたっていたのである。しかしこの海峡もいつしか埋もれて舟を通さなくなってからは、東西交通上から藤戸はもう重要な意味を持たなくなった。その上近年になって交通機関が発達してきてからは、南北交通の上からもその重要さは昔はどではなくなった。

天城の起こり1

星島繻閑の古帳書物写しによれば「藤戸向嶋を広田嶋には、青海大膳桜山に城築、元久年中居城す、嘉吉二年天子家臣天野六左衛門居城してより天城と号す、天は海に通じ、城はもとより城をあらわしており、海に臨んだ城があったので、この名がでてきたのであろう。池田家は、岡山池田家の家祖池田輝政の兄元助(小牧長久手の合戦で輝政の父恒興共々討死)の嫡男由之より始まる。初代由之は、叔父輝政が姫路城主となった時には利神城を築き、本家3代光政が鳥取移封の時には米子城主となった。天城家2代由成は、寛永6年、池田光政が鳥取城からから岡山城へと移封され、池田天城・伊木・片桐池田・日置)・森寺池田)・土倉の六家老を領国の要所に配置した時、備前下津井城主で32,000石を領した。寛永16年、一国一城令により下津井城が廃城となり、由成は天城に陣屋を構え、以後代々天城を領して11代政和の時に明治を迎え、現在でもその当時の面影が町並みにみられるます。
源平 藤戸合戦
1184(寿永3)年倉敷が海だった頃市内有城と対岸の藤戸との間にあった海峡をはさんで源平合戦がありました平家を攻めてここまで来た源氏軍の佐々木盛綱は約2kmの海峡を馬で渡り対岸に陣をかまえた平家を攻めるためひそかに漁師から海の浅い所を教えてもらいましたところがこの秘密がほかの人にもれると自分の手柄にならないので漁師を殺してしまいました盛綱は先陣の功により戦に勝ちましたが、これを聞いた漁師の母親は、「佐々木といえばささ(笹)までにくい」と、笹をむしりとった笹無山や、盛綱がこの漁師の供養のためにお経をうめたという経ガ島、合戦の犠牲者を弔った藤戸寺など多くの史跡があります。古くから瀬戸内方面へ勢力を伸ばし、備前・備中地域でも地方豪族をその家人としていた平氏に対し源氏は攻めあぐんでいた寿永2年の水島の海戦では壊滅的な敗北を喫している1年余りの後、潮流が激しく渡海が困難な藤戸海峡(児島半島は当時は島であった)をはさんで両者は対峙したが食料・物資の欠乏や異郷での長い転戦により源氏の意気は上がらないそれを救ったのが佐々木盛綱である盛綱は土地の者から藤戸へつながる浅瀬の所在を聞き部下数騎を率いて先陣の功を打ち立てたこれに意を強くした大軍が続きついに児島にある平氏側の砦を攻め落として屋島まで敗走させた。


藤戸寺(藤戸)
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藤戸天城の史跡 藤戸寺(藤戸)

奈良時代に行基菩薩が開基。高野山真言宗。平家滅亡後、
佐々木盛綱は両軍戦没者の供養に、大法会を催し、
建物の修復もした。境内の石造五重塔は鎌倉中期の
寛元元年(1243)銘、県指定重要文化財である。
いま刈田にて 海渡る兵馬見ゆ 誓子

藤戸寺石造五重塔姿(藤戸)
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藤戸天城の史跡 藤戸寺石造五重塔姿(藤戸)
鎌倉中期の寛元元年銘、県指定重要文化財

藤戸天城の史跡、経ヶ島
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藤戸天城の史跡 経ヶ島(天城)
盛綱橋の東、天城小学校の校庭に続いて小さい丘がある。もとは藤戸寺が管理していた海中の島。頂上に古びた宝篋印塔(経塚)と六角形の石塔婆(漁塚)がある。佐々木盛綱に浅瀬を教えた「浦の男」の供養に建てられたという。
経ヶ島 秋の下闇 深かりし  年尾

藤戸天城の史跡、天城キリスト教会
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藤戸天城の史跡 天城キリスト教会(天城)
明治23年建築の県下で高梁キリスト教会に継ぐ、古いキリスト教会である。
県指定の重要文化財

藤戸天城の史跡、浮洲岩
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藤戸天城の史跡 浮州岩(藤戸)
京都の醍醐三宝院の庭は国の特別名勝史跡だが、この庭で有名な藤戸石は、浮州岩と呼ばれ海中に浮き沈みしていた。江戸時代に、水尾筋を残して南北から干拓が進んだ頃、かつて岩が在ったところに記念の碑が建てられた。熊沢蕃山の書と伝えられている

藤戸天城の史跡、浮洲岩
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藤戸天城の史跡 浮州岩(藤戸)

藤戸天城の史跡、池田家墓所
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藤戸天城の史跡 天城池田公墓所(天城)
天城のお櫻山という小高い丘に、天城池田家の墓が並ぶ。慶長14年(1609)に下津井城を預かった由之を初代に数えると、昭和元年の年末に没した政佑まで、12代となる。代々岡山に居住し、分家格で厚遇され、本藩の施政を助けた。明治以降は男爵に列した

藤戸天城の史跡、天城陣屋跡
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藤戸天城の史跡 天城陣屋跡(天城)
幕府を憚かりお茶屋と称したが、実質は陣屋であり支藩の格式を持っていた。初代由之が児島郡で32000石と下津井城を預るが、寛永16年下津井城破却後、天城で政庁を開き、家臣を居住させた。その意味で天城は城下町でもあった。

藤戸天城の史跡、笹無山
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藤戸天城の史跡 笹無山(天城)
盛綱に斬られた浦の男にはひとりの母がいた。息子の無残な最後を知り、佐々木と聞けば笹まで憎いと笹を抜いてしまった。謡曲藤戸では、盛綱の馬に縋がり、無情な仕打ちを怨む哀切な筋書きになっている。



藤戸天城の史跡 観音免の松(天城)
天城の正福寺裏の丘にあった松の大樹、その根本に観音を祀ってあった、ふるくは雌雄2本あったが雌松が枯れて雄松のみ残っていた。この松は葉が3本になっており枝垂れて下枝を張った有様は鳥が羽を拡げた様に似ていたので、かって大阪の儒者藤沢南岳よって鳳舞松と名付けられた、昭和14〜15年ころ松喰虫の害にあって遂に枯れ死した。樹齢450年位かともいわれていた。
撮影・玉田正俊

藤戸天城の史跡、笹無山
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藤戸天城の史跡 笹無山(天城)

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